末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第54話


明治の考古学 -瓦-③

 ところで、旧高取邸などの近代の和風建築物の葺き瓦を調べているうちに、瓦にスタンプ、刻印があることに気が付きました。もともと、近世以前の瓦にもこうしたスタンプが認められて、(窯元)制作工房などの記号ではないかと考えられていました。名護屋城跡の瓦にもこうした刻印がみられ、無論のこと安土城、豊臣大坂城などの織豊期しょくほうきの城郭瓦に残された刻印は奈良の寺院に認められるものであり、奈良衆ならしゅう(奈良工人ならこうじん)の介在の証ともされるものです。

 菊花きっか、丸に十字、四菱よつびし、丸、桝、ふたつ桝、輪違い、三日月、格子などの文様で、丸瓦は凸面とつめん玉縁たまぶち部分の縁辺に、平瓦は端辺の小口に認められるものです。(図1) しかし、この近代の建物に使われた瓦の刻印はその様子がかなり違います。カタカナの一字、漢字の一字、そして、明らかに名前と思われる二文字の漢字等でした。(図2)

 また、良く調べてみると軒丸瓦の飾り瓦当面の横に、縦長のスタンプ文字が見つかりました。何とか読み解くと「濱崎儀右衛門」と読み取ることが出来ました。そこで、出来るだけ丁寧に、積み替えの為に屋根から降ろされた瓦を調べてみると、いくつかの文字刻印スタンプが発見できました。これらは、少なくとも、明治後半期に製作された瓦であり、瓦の性格上、比較的近い場所から運ばれたものであることが予想されたわけですが、濱崎という地名が確認されたことは、重要な事でした。

 変な話ですが、今回のシリーズで取り上げる物は、たかが100年という時間差にもかかわらず、文字や記録がたくさん残されているに違いない時期のものでありながら、実は、わからない歴史の断片になりつつあるという事実を知ることになるものなのです。

 記憶をたどってみると、前原の研究者で博多瓦町はかたかわらまちや今宿の瓦師の調査で確認された旧唐津藩もしくは旧対馬領濱崎の瓦業者の事を調べられた方があったことを思い出しました。早速、糸島市の文化財担当者に確認して、その研究者が前田時一郎氏であり、「今宿サイネモン」と称される福岡市内領域の近世から近代の瓦をくまなく調査されていることを知ることができました。

 その前田氏の著作で「濱崎儀衛門」等の唐津系統の瓦師の製品が、博多地域や及び糸島で発見されることを知ることになったのです。克明精緻こくめいせいちな足で稼いだ聞き取り調査の成果が、その著作に表れているものでした。

 著作、①「街道筋のサイネモン―博多瓦町と今宿の瓦師物語―」(前田 2002-a)、②「街道筋のサイネモン―続編・旧糸島郡の瓦業者―」(前田 2002-b)、③「街道筋のサイネモン―増補改訂版・旧糸島郡の瓦業者―」(前田 2009)の三冊は、貴重な記録でありました。その後、問い合わせした糸島市教育委員会の話を聞いて、前田氏本人からも追補の資料も送っていただいたのです。

 明治から大正、昭和と続く近代の唐津地域における産業動向と庶民生活の指標としての経済活動の姿は、思わぬ瓦の存在からも読み取れるのではないかという新しい視点が生まれました。まずは、目の前に提示された瓦の刻印の種類の確認が必要でした。

 また、市内の各地の試掘調査で出土した瓦類の中から、刻印のある瓦を抽出しながら、その刻印こくいんと軒飾文様との関係がわからないかとも考えたのです。「濱崎」を冠するスタンプは、「濱崎儀衛門」、「濱崎伊勢吉」、「濱崎正喜」、「濱崎政右エ門」等があり、「儀衛門」等にも書体が複数確認されることもわかってきました。(図3)

 前田氏の著作には、スタンプ刻印と飾り瓦の文様との対比が示されていないので、残念ながら軒瓦の文様の系譜を追うことはできないようです。それにしても、福岡域にも濱崎系統の瓦が広がっていることが面白いし、明らかに重量のある製品の輸送が船舶によるものであると考えられました。濱崎の瓦の販路には福岡域もあったのです。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長等を歴任。(現在は退任し、松浦史談会 事務局長)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。