末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第52話

明治の考古学 ➖瓦➖ ①

少し新しい時代の話をしましょう。と言っても、令和の現在からすれば、平成、昭和、大正、そして明治という四つの時代前のことになります。

令和元年(2019)12月にJR東日本は、品川駅の改良工事と、新しい山手線の駅「高輪ゲイトウェイ駅」等の工事で、明治5年(1872)に新橋~横浜間の鉄道敷設時に海上に構築された築堤遺構が発見されたと発表しました。

この「高輪築堤たかなわちくてい」と呼ばれる構築物は、鉄道敷設を最優先にする大隈重信らに対して、軍備優先を主張した兵部省、そして西郷隆盛の反対で、予定路線内にあった旧薩摩藩敷地及び兵部省用地の買収が難しいことになり、急遽の策として海上に堰堤えんていを設けて、鉄道敷設を完成させた痕跡でした。その後、このあたりは埋め立てられ、都市の拡大によって、それがどこにあるかもわからなくなっていたところでした。

これに先立つこと、この鉄道創業時の旧汐留駅跡(後に新橋駅となる)再開発工事でも、平成7年(1995)に旧新橋停車場跡が確認され、貴重な遺構や遺物が出土しています。

江戸時代の桜の名所、御殿山ごてんやまを切り崩して作られた土砂と幕末のお台場用の切り石を利用した工事によって作られ、当時の錦絵にも描かれた「高輪築堤たかなわちくてい」も、このような調査がなければ、歴史の頁に埋もれていったと考えられます。発掘という外科手術にも似た、考古学の手法は決して古い時代だけの学問ではないということなのです。現在では、普通になっている近世、江戸考古学も当初は、東京などの限られた場所での研究アプローチとして始められたものです。研究や調査の領域は限りなく広がっていき、その世界に限界はないのではないかと感じています。

さて、今回から少し「明治の考古学」と題してこの地方のお話をしてみたいと思います。

平成13年〜17年(2001~2005)に行われた国指定重要文化財「旧高取家住宅」(後に施設名称として『旧高取邸』となる)の保存修理工事に伴い、様々な物質、考古資料と言ってもよいものに出会うことになります。当時、唐津城跡整備計画に基づき、城下町の調査を積み重ねていくことが将来の唐津城跡研究の基礎になると考えていました。その検討の糸口として、特に研究が進み、膨大な出土瓦のデータが公表され始めていた中世末の名護屋城跡を基礎にして、唐津城下における近世瓦の研究を進めていた時でした。そこで旧高取家住宅に葺かれた瓦はとても、新鮮な資料に思われました。最終的には、5万枚以上の瓦の葺き替えを要した旧高取家住宅、そしてその後に続く、旧大島家住宅等の調査は、近代瓦を考える貴重な資料になりました。

写真1.工事中の旧高取家住宅居室棟の瓦葺家根

古代、寺院、官衙施設に利用された瓦は、室町時代後半期の戦国期に耐火性という意味で城郭に利用され、石垣、漆喰壁とともに江戸期に商家に利用されるようになり、殊に、集住の進む江戸、大阪などの都市を中心に普及していきました。18世紀後半、西国の旅をして肥前松浦の生月島の捕鯨を記録した、画家司馬江漢しばこうかん(日本初の西洋画家として教科書にも載っている)の日記、『江漢西遊日記こうかんさいゆうにっき』には、例えば、広島では「舟より上がれば城下瓦屋を並べ、富商多し」等と町の繁栄や富商の証として、必ず瓦で葺かれた屋根が出てきます。唐津の明治期の絵葉書の街並み(明治30年代以降)を見ても、平屋の藁屋根の目立つ家々と瓦屋根がじった町並みを見ることができます。江戸時代後半以降、需要の増えた瓦生産は産業として時代の要望に応えていったと思われます。

出土した瓦、特に、軒先を飾る軒瓦のきがわらには、唐草文からくさもんを中心とする文様がスタンプされ、その変化を読み取ることができます。
古代以降、瓦葺かわらぶき建物たてものは、本瓦葺ほんかわらぶきと呼んで丸瓦(形状から鐙瓦あぶみがわらともいう)と平瓦からなり、その組み合わせで防水の役割を果たしていました。
ところが、この本瓦葺は、重量が重くなるなどから、商家や住宅に普及する江戸中頃に、桟瓦さんがわらという折衷形の改良品が開発されて主流になっていきます。断面がひらがなの「へ」字形の瓦が江戸時代後半から普及し、近代期の瓦もその延長にありました。(続く)

図1.旧高取家住宅の桟瓦
図2.桟瓦の形態
Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。