末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第51話

布となった糸⑰ 

―古代人はなにを着ていたか―

この稿の最後が紙面ではなくなって、少し、切りが悪くなってしまいましたが、仕方のないことと思いつつこの原稿を書いています。

さて、「古代人はなにを着ていたか」は平成28年(2017)に古代の森会館の特別展で企画した展示会のタイトルでした。そして、この「ものがたり」の第35話(からっちゅ2019.9月号vol.82)から今回まで十七回続けてきたのは、その展示内容を再録したものです。その目的は、衣食住と言われる人類の生活の基本的な活動の痕跡が歴史学、特に、事物から解き明かそうとする考古学の視点からは見えてくるものがたくさんありまが、実際は分からないことの方が多いのです。そのことを示したかったのです。私たち研究者が自戒せねばならないのは、何処までが事実としてわかっているのか、そして、何がわからないかということを明らかにしておかねばならないということなのです。

そのようなことを考えていると、冒頭でお話ししたように、小学校の教科書や歴史入門書の原始古代の、特に弥生時代以前のイラスト画像などに疑問がわいてきました。その疑問は、描かれている白い、もしくは、色の薄い柔らかそうな衣装であり、布の姿でした。本当に、こんなものだったのか。これは、正直、木綿を意識して描かれているものなのではないかと感じました。この稿の第37話で書きましたように、木綿の日本への伝播は、遡っても、室町時代であり、庶民の利用は、江戸時代になってからなのに、どうしてこんな絵が描かれるのだろうという懐疑でした。絵を描く人の多くは、歴史の専門家ではありません。しかし、その絵を監修している先生方は、歴史学の専門の方々なので、そんなことはよくお分かりのはずなのに、どうして結果としてこんな絵になるのか。不思議でした。

一方で、古代人もしくは原始人の姿や衣装が深く考えられないで、安易に描かれ、それが、一般の人々の映像としてインプットされているのではないかという疑念もありました。その疑問について回を追って考えてきました。現時点での回答は、やはり、縄文時代の人達の衣料に利用した植物は、広義の麻、つまり、大麻、苧麻等の植物繊維であり、弥生時代なると中国から絹が伝わり、合わせて、織機も伝わったという事実でした。といっても、絹は一般の庶民が使えるものではなく、次第に階級社会のステータスの様になっていきました。しかし、卑弥呼などの支配階級が中国との交流によって手に入れた漢や魏の国の、赤色、紺色、青色の驚くほど色彩豊かな糸や布は、500年後には、『養老衣服令』に見られるように天然染料によって多彩な色として作り出され、この衣服の色は階層のシンボリズムとして利用されるようになったのです。

それによると皇太子は黄丹(おうに)、一位~三位の大臣クラスは深紫、浅紫、四位~五位の高級官僚は、深緋、浅緋、六位~初位の役人は、深緑、浅緑、深縹、浅縹、庶民、百姓は栗、桑等の暗黄色系、そして、奴婢は黒榛(くろはしばみ)とあります。この衣服令による位階の色序列は「黄丹(おうに)」、「紫」、「緋」、「緑」、(はなだ)」、「黄」、「黒」となり、最下層が「黒」ということになります。礼服や朝服と文官、武官でも様々に違いがあり、これに冠、頭巾や帯、袴に履まで、さまざまに規定がありました。面白いことに、中国の律令を導入したにもかかわらず、中国で最も聖なる色とされた黒が最下位という階層にされて蔑まされていることです。また、最上位の天皇の規定がなく、神と同じく天皇には白があてられました。皇太子をのぞけば、実際の最高の色は紫であり、それは、藤原氏との関係があるとも言われます。とにかく、庶民は、黄色と茶色の植物の桑、柴、椎、橡等を煮出して染めたものしか使うことが許されなかったのです。

その後、10世紀の『延喜式』に記された「縫殿寮 雑染用度」で使われた布の染料は、黄櫨(きはぜ)(むらさき)(ぐさ)紅花(べにばな)支子(くちなし)(あかね)蘇芳(すおう)(かし)(つるばみ)苅安(がいやす)(くさ)(あい)があり、その多くが薬草であるといわれます。いずれにしても、天然染料によっての多様な色を作り出すことが出来るようになって、新しい技術として日本に定着していきます。平安時代以降、中国の衣服令のシンボリズムは、日本の独特の繊細な色彩感覚の中に埋没していくのかもしれません。衣服の色については、また、別の機会にお話ししましょう。

最後になりましたが、古代の人々は、縄文時代以来の植物由来の染料で染められた衣服を用いたといえそうです。つまり、白い柔らかな衣類ではなく、その素材は、まさに荒栲(あらたえ)であり、硬くゴワゴワとした繊維を叩き柔らかくしたものであり、どうしても、山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」の「・・寒くしあれば麻衾引き被り・・・」の(によ)び泣く姿が、古代の庶民の着衣の象徴のように感じるのです。こんな長い長い話でした。      (完)

(令和三年一月記)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。