末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第47話

古代人は何を着ていたか⑬
ー布となった糸ー

前回、正倉院の衣服の裁断図さいだんずが和服、着物のち方とよく似ているといいましたが、和服の製作に関係従事されている方はお分かりかと思いますが、日本の着物はとても合理的に計画された衣服なのです。それは、反物から、どのように着物の素材を切り取るか(一般的につといいます)の工夫なのです。着物一着分を反物と呼ぶようになった訳でもあります。反物は幅約一尺(36㎝~37㎝)、長さは二丈六尺~八尺(12.5m)、まれに三丈もあります。裁ち方に工夫があるというのは、着物はほどけば布に戻り、「繰り回し」という着物の作り替えが出来るものなのです。一般に反物は、文様や柄に関係なければ、「追い裁ち」という裁ち方で作られます。(図1)

これこそが、古代からの知恵だったのですね。

さて、素人があまり深入りするとぼろが出ます。これくらいにして、次に、多くの皆さんが興味深く思っている「邪馬台国の卑弥呼の衣装」のことにも触れておきましょう。

邪馬台国論争は江戸時代の新井白石あらいはくせき本居宣長もとおりのりながから明治時代には、内藤虎次郎ないとうとらじろう白鳥倉吉しらとりくらきちの論争があり、いよいよ白熱し、歴史学、文献学に考古学を交えて現在に至っています。卑弥呼の問題も、戦前までは、神功皇后じんぐうこうごう倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめ等の『記紀』の人物に比定されていました。戦後になると、神話世界から飛び出し、考古学や新しい科学に基づいた成果により、自由な邪馬台国論争が展開され、様々な卑弥呼像がイメージされてきました。

衣装についても、その人間的な側面が強調されて描かれて行くことになり、漫画、アニメーション等にも登場する人気者になっていきます。それこそが、戦後の科学的な歴史研究の成果を映し出したものという見方もあります。有名な日本画家安田靫彦やすだゆきひこ氏の描く二通りの卑弥呼像は自由な論争が続くことを象徴するものでもあります。

とはいえ、永遠に卑弥呼像とその衣装は虚像であり続けるのでしょうか。ロマンを感じながらも、実像が知りたいなとも思うのです。出土資料の最新の情報や様々な分野の研究者が想像する卑弥呼の衣装が大阪府立弥生文化博物館で公開されたことがあります。その時のいろいろな案をご紹介しましょう。第一案、国産の繊維を用いた貫頭衣で多くの用尺の織物を使ったもの。素材は、大麻たいまもしくは苧麻ちょま。第二案、北部九州のみの出土である絹を素材にした第一案の形状。第三案国産の大麻、苧麻もしくは絹を素材とした第一、第二案の衣服の一部(帯等)に、魏の国からもたらされた高級織物を用いるもの。第四案、魏の国からもたらされた高級織物をすべて用い、第一案、第二案の衣服とするもの。第五案、魏の国からもたらされた仕立て上がりの衣服一揃えを着用するもの。それぞれに面白いですね。衣服の推定復元を行っている研究家酒野晶子さけのあきこさんは、繊維とアクセサリーも考慮して、図2のような卑弥呼像も考えています。①は錦のおびたすきひも、ヘアーバンドをつけた形、②は貫頭衣の両側を縫い残し、後ろ中央を縫った形。③は領巾ひれと透けた上着、衣服の上に羽織る領巾の姿。④は上記の第三案、そして⑤は同じく第五案です。

一方で、自由な発想に基づく卑弥呼像というと、手塚治虫さんの「火の鳥黎明編」の卑弥呼像や石ノ森章太郎さんの「マンガ日本の歴史」の卑弥呼像、里中満智子さんも卑弥呼像を描いています。先程の大阪府立弥生文化博物館の特別展「卑弥呼の宝石箱」展(1998秋)や「卑弥呼誕生」展(1997秋)でも、それぞれ、卑弥呼の豪華な衣装を着たイラストイメージ図が掲載されています。ちょっと、面白いのは、考古学の発掘が新しい情報を提供すると、それが画像に反映されることです。例えば、吉野ヶ里遺跡北墳丘墓の甕棺墓出土のコバルト色のガラス管玉の冠飾りとか。楽しいですね。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2020年9月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。