末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第46話

古代人は何を着ていたか⑫
ー布となった糸ー

前回お話しした染料については、二十二話二十三話でベニバナの事は触れましたが、また、別の機会にお話ししましょう。

さて、いよいよ、衣料についての古代の姿を考えることにしましょう。①の冒頭で話しましたように、古代人の衣服のことになると、その記録として一番に使われるのが、魏志倭人伝の倭国の人々の衣服の記載でしょう。その部分を抜き書きしてみると、次の様になります。

『・・・男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之・・・』

となって、『木稲紵種蚕桑絹績さんそうけんせき』という織物の原材料で説明した部分に続きます。これが、有名な古代の衣類「貫頭衣」の説明の部分なのです。簡単に読むと

「・・男子は皆、露紒ろかいし(結った髪を、被り物をしないであらわにすること)、木緜ゆうを以って頭に招け(木緜の紐で持ち上げる)、其の衣は横幅おうふく但々だだ(だだ)結束して相連ね、略々ほぼ(ほぼ)縫うこと無し。婦人は被髪屈紒ひはつくっかいし(頭に被り物をして、髪を後ろで束ねる)、衣を作ること単被たんぴの如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて、之をる。」

となります。

博学の考古学者佐原眞さはらまこと氏によると、倭人伝のこの部分を次の様に解釈して説明しています。「男は皆、かぶりものをつけず、木緜で頭を巻き、衣は横幅の布をもちいて、ただ結んでるだけで、ほとんど縫ってはいない。婦人は・・・衣は単被(ワンピース)のようにつくり、中央に穴をあけて頭を貫いてこれを衣る。」さて、ここでの木緜は木綿もめんの事ではなく、かじの樹皮の繊維の事は、すでに で説明したものですね。

こうした解釈から、「横幅衣おうふくい」と「貫頭衣かんとうい」の名がうまれ、横幅衣は布の長辺を横方向にして体に巻く衣類とされました。しかし、古代の衣類を研究している武田佐和子たけださわこさんは、中国の正史に書かれた記録をもとに、「布の取り方と、布の使い方で呼び分けたもので、実は、両方ともおなじもの」という違った解釈をされています。

つまり、この魏志倭人伝の記録をどのように読んで解釈するのかによって、違った内容になることになります。貫頭衣は、布の長辺を縦方向にして二枚に折り、折った部分に穴をあけたものと考えられていましたが、弥生時代にはそのような幅の布は織れません。そこで、横に並べ長辺を縦方向にした布を二枚、横ならべにして縫い、頭を通す部分だけ縫わずにおおくものではないかとされています。また、二枚横ならべした布の後ろ側だけを縫い合わせ、全面は縫い合わせることなく、右衽みぎおくみ(右前)なり、左衽ひだりおくみ(左前 )なりにした服ではないかという意見も出てきました。「貫頭衣」、一つとっても難しいですね。

その後、五世紀の「隋書」には、「・・婦人束髪於後衣裙襦裳皆有・・」とあり、婦人は上下の裳裾もすそを持つ着衣に変化しているようです。埴輪などからも想像できるものですね。六世紀のりょう代の「職貢図艦しょくこうずかん」に表された倭国使の姿は、頭の鉢巻きの様子など、倭人伝の記録を基にして描かれたものかもしれませんが、残された古い記録として、着衣の様子をうかがわせるものでしょう。七世紀になると、皆さんよくご存じの高松塚の女子群像や男子群像図から、限られた身分や、渡来系の人々の姿かもしれませんが、着衣姿の具体的なものとして確認できるようになります。

ところで、弥生時代の衣類の研究者、竹内晶子たけうちあきこさんは、弥生時代の衣服は、作ろうとする衣服の形を構成するに必要な布辺を織り、それを縫い合わせる方法を用いたと推定しています。当時は、未だ、布を曲線や斜線に裁断して仕上げる技術はなかったとしています。

弥生・古墳時代の衣服資料が残っていないため、一番近い時代の正倉院しょうそういんに残る資料を基に作られた実測・裁断図によれば、50㎝~70㎝のものを使用して仕立ててあり、見頃と袖の縫い方は、細い袖の衣服でも、タテ糸方向に直角ではなく、平行に縫われていると指摘されています。

あれ、これは、和服の裁ち方によく似ているな。そう思いませんか。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2020年8月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。