末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第43話

古代人は何を着ていたか⑨
ー布となった糸ー

前回説明した、クヌギ、クリなどの落葉広葉樹やコナラ、シイなどの常緑照葉樹に生育するヤママユガの幼虫は、大型の黃緑色の芋虫形でわずかに長刺毛ちょうしもう(長い毛)をもつ様態を示すものです。この形態を見ていると、筆者は、いわゆる緒締おじめ形とか獣形とされ、縄文系勾玉と呼ばれる玉類の姿は、このヤママユガの幼虫を模したものではないかとひそかに考えています。

勾玉の研究者、熊本大学の木下尚子先生は、その形態の元が何なのかはわからないが、「その表現様式の共通性、あるいはそれによって表現されるモノや情況の斉一性をこそ重視しようとする姿勢がうかがわれる」とし、形状を「紐で束縛した痕跡の溝を遺す燻製肉塊のような不規則な塊状の形態を為し・・全体的にみると中央部がやや湾曲し、頭部、腹部、尾部の三つに相当する隆起があり」と説明しています。まさに芋虫型幼虫の形態そのものです。出土地域も「弥生前期から中期中頃に属する西日本」、特に「唐津平野に集中する」と説明しています。繭から糸をとりだす技術の到来が、身近なヤママユガの繭利用を活性化し、それは、緑の翡翠の玉にまで表現されるものであったとすれば、面白いことです。(図1)

それが事実であれば、 虫の吐く糸が布に変わるという神秘は、まさに魔法の所業として、崇拝の対象となったと考えられます。中国東周代には玉蚕ぎょくさんの例もあり、あながち特殊なことではないでしょう。

ところで、稲作とともに伝播した蚕桑の技術の成果は、その後の倭人社会でどのように扱われたのでしょうか。その説明にも、『魏志倭人伝』は重要な情報を持っています。それは、倭の邪馬台国と魏の国との外交交渉にかかる贈与品や貢納品の中にありました。

正始四年 では(二四三)に、倭の女王卑弥呼ひみこ魏帝斉王ぎていさいおう倭錦わきん絳青こうせいけん緜衣めんいはくなどを献上したとされ、また、卑弥呼の死後、壱与いよの代には、異文雑錦いもんざつきん二十匹をたてまつったことが記されています。これらの織物類はどういったものだったのでしょうか。

布目順郎氏は著書『絹の東伝』で「けん緻密ちみつに織られた織物」、「緜衣めんい真綿まわたの綿入れ」、「帛は本来は絹織物の総称であるが、白い薄絹の事であろう」と説明しています。

また、氏は奈良県天理市の下池山古墳で発見された織物が倭国で作られた最高級の織物「倭文しとり」(横縞模様の楮、麻、苧麻で織った布)であり、それが、景初三年(二三九)六月、卑弥呼が魏の皇帝に贈ったとされる「班(斑)布はんぷ」とされるものであろうとも指摘しています。この年十二月の、魏からの贈与品には、絳地交龍錦こうちこうりゅうきん五匹、絳地縐粟罽こうちすいしょくけい十張、蒨絳せんこう五十匹、紺青こんせい五十匹があり、特に卑弥呼に、紺地句文錦こんちくもんきん三匹、細班華罽さいはんかけい五張、白絹五十匹が贈られています。錦は何種類もの色糸で文様を織り出した絹織物であり、赤い色、青い色など多彩で文様も精緻な圧倒的に豪華で高級な絹織物が魏からは贈られていたと考えられます。

しかし、その中にあっても、五年後の倭国の貢納品に「倭錦」、「絳青の縑」、「異文雑錦」を送ったという、精一杯の背伸びした贈り物に、絹製品の自国生産の成果が見えてきます。

本稿の④で例をあげた、弥生時代から古墳時代の各墳墓の副葬品に見られる織物の痕跡は、交易品だけではなく、国内生産の証拠とも考えられるのです。吉野ヶ里遺跡出土の甕棺かめかんから検出された絹製品から、布目氏は「弥生時代中期中葉頃から後期初頭にかけての吉野ケ里遺跡辺りには、当時としては高級品とされた紗穀しゃこく風の薄絹が織れるほどの工人がいたということである」と卑弥呼のいた場所を暗示するような指摘をされています(図2)。

しかし、三世紀の扱いが、弥生時代なのか古墳時代なのかと微妙な三世紀中頃のことであり、そう簡単にはいかないようです。難しい、邪馬台国論争ですね。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2020年5月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。