末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第42話

古代人は何を着ていたか⑧
ー布となった糸ー

織物道具については、また、後に触れることにして、今回からは、もう一つの糸であり、そして布となった「絹」の話をしましょう。本稿の④で書きましたが、我が国における最も古い布の文献ともいえる中国、魏の時代の正史、『魏志』の東夷伝倭人の条に、
「種禾稲紵麻蠶桑絹績出細紵縑緜」
と記録された文字の中に、「絹」が登場します。



禾稲かとう紵麻ちょまを植え、蠶桑絹績さんそうけんせきして、細紵さいちょ縑緜けんめんを出だす」



と読むことが出来るもので、桑を植えて、蚕を育て、そしてかたく織られた絹布、「けん」を作るとあるのです。つまり、三世紀には、倭国に於いて絹の生産がなされていることを伝えているのです。

昆虫が作り出す糸を利用すること、カイコ蛾などの幼虫、絹糸虫が吐き出す糸で作られた繭を利用した絹糸の生産です。
日本の古い記録、
「古事記」、
「日本書紀」にも織物に関する記載が多くみられます。それには、稲等の五穀の誕生と一緒に語られる場面があります。「古事記」では、食物神のオオゲツヒメ(大気都比売神)の屍体の頭から、「日本書紀」では、ワクムスビ(稚産霊)の頭と眉から蚕と桑が生まれ、保食神、ウケモチカミの屍体の眉から繭が生じたという伝承が書かれています。同じく「古事記」の仁徳天皇記に、山代やましろ韓人からひと、ヌリノミ(奴理能美)が皇后イワノヒメ(磐之媛命)に
「一度は這う虫、一度はつづみ、一度は飛ぶ鳥になる」
三種の虫を献上したという記録があります。カイコが幼虫から繭を作って蛹へそして羽化して蛾になる様子を示すもので、養蚕技術が韓人から伝えられたことを表しているものと考えられます。これらの事から、養蚕が稲作と相前後して伝えられた技術とされるわけです。

すでに、この稿で何度も登場している原始古代の布の研究者、布目順郎ぬのめじゅんろう氏によると、養蚕技術は、中国では、新石器時代にまで遡る可能性があり、仰韶ぎょうしょう文化期(紀元前四千年紀)にその痕跡がみられるそうです。

桑の葉を食べる野生のクワコが馴化じゅんか(環境になれて変化すること)されてカイコ(家蚕かさん)が生み出されたと考えられています。その場所は、華北から四川、湖北、湖南という長江上。中流域の山間地域と考えられています。いんの時代の甲骨文字に。かいこくわいときぬの文字があり、養蚕がすでに確立していたとされ、秦、漢時代に、いわゆるシルクロードを通じて西方の世界へも伝えられることになったといいます。

実は、幼虫が蛹になるために、糸を吐いて繭を作る絹糸虫けんしちゅうの仲間は、カイコやクワコが属するカイコガ科だけではないのです。日本文化の源流を東アジアの照葉樹林文化に求める佐々木高明ささきこうめい氏等は、長江流域の文化複合を研究して、「桑を食べない絹糸虫」の利用を数多く指摘しています。カイコガ科のボンピックス(Bombycidae)の仲間以外には、ヤママユガ科の仲間も見られ、アッサム以西のインド周辺にも多くの絹糸虫がいることが分かっています。宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」の中には、森中のクリの木に網をかけて、たくさんの青白い虫が繭になると、それを煮て糸を取る話が出てきますが、これは、天蚕てんさんというヤママユガのこと、クヌギ、コナラ、シイ、クリの葉を食べるもので、緑色の濃い糸が作られます。これらの仲間では、「カイコの様に完全飼養種もあれば、幼虫を飼養樹に放し飼いにする半飼養種やさらに、森林の中で野生する天然の絹糸虫の種類も少なくない」そうです。先の宮沢賢治の例は、天然のものを集めるスタイルですね。最近、群馬県の中之条町で、クヌギの木でヤママユガを育てて、繭を取っている高原の里山の風景を見ました。半飼養のスタイルでした。1ヘクタールに千本程のクヌギを植え、人の背の高さに樹木の高さを揃えて、ヤママユガを育てているもので、自然の雑木林にある印象的な風景でした。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2020年4月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。