末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第41話

古代人は何を着ていたか⑦
ー布となった糸ー

前回の最後に、草木繊維で糸を作り、編まれた布、編布の事を話しました。木綿以前の庶民の衣は、こうした草木繊維のゴワゴワとしたものを着ていたことになります。 それは、何度も取り上げるように、栁田国男が表現した、「荒栲あらたえ」という言葉そのものが示すものだったのです。しかし、人間は、賢い動物、ホモ・サピエンスなのです。この粗い繊維の編み布を柔らかくするすべも知っていたのです。それは、単純な行為で、編んだ布を棒で叩いてこなすのです。つまり、柔らかくしたのです。現在も、民俗資料として本稿④でお話しした徳島のこうぞかじで作られた「太布たふ」を、着るように作る前に「ヨコヅチ」と呼ぶ木槌でこなす作業が行われました。

面白いことに、ミクロネシアでは、タパ布という不織布ふしょくふ(編みも織りもせず、繊維を叩きのばして布にしたもの。羊やラクダの毛を叩き固めたフェルトもこうした不織布です。)もこうした木槌で叩かれてもこなされて作られます。縄文時代から、丸太材の皮をはぎ、片端を掴みやすいように削った棒が出土して、ヨコヅチと呼ばれていました。(図1) 

民俗例で藁などを叩いてこなす作業に用いられたことから、そうした繊維を叩く道具と考えられていました。この道具を分類した、元名古屋大学の渡辺  誠先生は、弥生時代前期から藁打ち、豆打ちが出現し、バットの様に細く、長いタイプは所謂キヌタと呼ぶ麻布と関係したものであろうと指摘されています。つまり、ヨコヅチは、繊維一般、つまり、粗く編まれた布そのものをもこなして柔らかくするものでもあったわけです。これも、ひょっとすると稲作とともに伝わったものかもしれませんが、荒栲が縄文時代からあることからも、もっと古い段階から存在したと考えた方がよいようです。その証拠に、縄文時代前期の鳥浜貝塚からもこの細長いヨコヅチに似た木器が出土しています。最初は、簡単な棒だったのかもしれませんね。

さて、話を先に進めましょう。糸にされた繊維を布にする高度な技術こそが、「織る」という作業でした。織るためには、機織機はたおりきを使うことになりますが、機織機はおおよそ、木製の部品が組み合わされて作られるものです。そこで、全体がわかるような出土例は極めて少ないのです。わずかな断片と、民俗例を比較することで、その形態などを想像することが出来ます。現在に残る機織機で、最も古い形態を遺すものは、地機と呼ばれるものです。原始的な機織機は、それがもっと単純な形にしたものだったのでしょう。(図2) 

機織機は次のような部分からなります。機織りの道具の名前は、一般的な呼び方から、専門的な呼び方、そして、地域的呼び方など様々です。そこで、判りにくく難しい場合が多いのです。そのことも、一方では、機織りの技術が、深く広く、日本社会に定着してきた歴史をも示しています。一般的呼称を書きましょう。


ちぎり
(織機の先端の枠にタテ糸をそろえて巻いておくタテ糸巻き具)

ちまき
(手元にあって布を巻く布巻き具) 


(上下に開かれたタテ糸にヨコ糸を通す道具で緯越具(よここしぐ)ともいい原始機と地機では「貫(ぬき」と呼びました。また、通したヨコ糸を手前に寄せて打ち込む道具でもあり、緯打具(よこうちぐ)でもある)

おさ
(ヨコ糸を打ち寄せる、背が丸く扁平に作られた道具)
綜絖そうこう
中筒なかづつ 
(タテ糸を交互に上下して、杼の通り道をつくりヨコ糸を通す開口具)

弥生時代の各遺跡から出土した木製品のうち、機織り具と考えられる道具で復元した原始機げんしきと沖ノ島奉納品や正倉院御物等の金銅製ミニチュアをもとに復元して、現代に伝わる地機を参考にした古墳時代以降の地機はいくつかの種類があるようです。民具研究家で機織機に詳しい、竹内晶子たけうちあきこ氏によると原始機の場合、杼は緯打具であり、やや遅れて開発される髙機だかはたでは、杼は「」と呼ばれ緯越具であり、新たに筬と呼ぶ緯打具が登場したといいます。しかし、民俗資料にみる地機にも、この筬があるものが多く見受けられます。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2020年3月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。