末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第40話

古代人は何を着ていたか⑥
ー布となった糸ー

繊維素材に撚りをかけて糸にする作業を紡績というわけですが、「績む」、または「紡む」と書く、「つぐむ」という作業は、繊維素材を衣類の素材とする糸にすることにおいて、とても重要な工程です。その証拠に、原始古代の各遺跡からも、この「つむぐ」ための道具が発見されます。

紡錘と書いて、「つむ」と呼ぶもので、縄文時代晩期以降の各遺跡から中央に孔の開いた円盤状や截頭円錐形さいとうえんすいけいの土製や石製の道具で、回転運動を利用して糸に撚りをかけるもので、紡錘車(紡輪ぼうりん)と呼ばれます。(図1)

この紡錘車の穴に差し込んで使う糸巻棒いとまきぼう紡茎ぼうけいといいます。(図2) 

作業は、いたって簡単で、紡茎の紡錘車の直上に、糸の先端を結んで固定し、紡茎の上端の鉤に糸をかけて紡錘ごと吊り下げます。紡茎上端の30センチほど上を指で押さえて、反対の手で紡茎を回すと,下から順に撚りがかかります。撚りがかかったら、次に、紡茎上端の糸をかぎから外し、紡錘車直上に出来上がった糸を巻き取っていき、これを繰り返していきます。かくして、りのかかった強い糸が出来上がるということになります。

ところで、糸を布にするためには、今度は「織る」という作業になり、織る道具が必要になりますが、織る道具の出現は、弥生時代以降になるようです。つまり、織る道具は稲作と同時に伝わったと考えることが出来るようです。では、それ以前の布はどのように糸から布になったのでしょうか。

衣を考える上で、その製作という切り口からみると、縄文時代から多くの編み物が作られてきたことがわかります。編み物とは。植物をうすく板状もしくは棒状にして編み上げて作るもので、網代あじろかごあみなどをいい、竹、葦、樹皮等で編んだすだれの子、むしろこもたわらなどもこれにあたります。

佐賀県内の縄文時代の遺跡からも最近は多くのこうした編み物が出土検出されます。古くは、西有田の中期後半の坂の下遺跡から出土した編み籠が有名ですが、近年、佐賀市の東名ひがしみょう遺跡の縄文早期の貯蔵穴から、驚くほど精巧な編み籠などが出土して注目されています。その技術は、工芸品というより、美術品と呼んでもよいくらいに精緻で精密な織りの技術によるものです。(図3)

不思議な話ですが、縄文時代の名称のもとになった、土器の表面に押し付けたり、回転したりしてつけられた文様の多種類の撚糸文よりいともんや縄文の原体は、織物の前処理としての糸の生産があったことを証明するものです。繰り返しますか、撚糸を織機おりきにかけて織ったものを織物というわけですが、衣服の材料となる布は、織物ばかりと限らないのです。縄文時代には、織機を使用しない布もあり、それを編布あみぬのと呼んで、後の織布おりぬのと区別したりもします。現在でも越後地方でアンギンと呼ばれる布はこの編布のことです。アンギンは、両端に脚をつけた横木という簡単な編み道具で製作されます。ヨコ糸はこの横木のケタに置かれ、錘りに巻き取られたタテ糸が二本単位で交互に横木の上を交差往復させて編まれていきます。もじり編みという手法です。(図4) 

この地方に古くから伝わった「もじ織り」という布は織機でこの作業を行ったものですが、これは後に織機の所でお話しします。アンギンのタテ糸を巻きつけた錘りをツチノコと呼んだりもします。こうしてできた編布は、タテ糸の間隔の粗密で様々な様態をもつもになります。かつて、土器に残されたスダレ状圧痕と呼ばれたものや、また、本稿の2で図示した佐志の笹の尾遺跡や菜畑遺跡から出土した縄文晩期の組織痕土器の蓆目圧痕むしろめあっこんも、アンギンの存在を示すものです。まさにこうした編み物は衣類にされても目の粗い、ごわごわとした民俗学者柳田国男やだぎだくにおが「木綿以前の事」で記した「荒栲あらたえ」そのものでありました。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2020年2月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。