末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第49話

古代人は何を着ていたか⑮

ー布となった糸ー

前回の野間氏の記録する、佐志の宮崎マセさんのお話でいうシキノとは、葛布や漁網として需要のあったモジ織りが戦後に化学繊維の普及によって衰微し、かろうじて織られていた、蒸籠等の蒸し器の敷物として利用された織物の事をいいます。シキノは、「蒸しあがった米粒がくっつかず、大変重宝がられた、唐津地方の家庭の必需品であった」と原口氏は著述しています。

つまり、昭和40年代にすでに、葛布や漁網としてのモジ織りは生産されていなかったといえます。宮﨑マセさんは、おばあさんが織ったという葛布を保存していました。それは、「ひっかけ肌着」と呼ぶ仕事着で、今となっては、貴重な資料です。

後藤氏が記録した、モジ織りの製作過程を見てみましょう。それによると、次の六段階で示されています。①刈採り、②づくり、③葛績くずうみ、④機ごしらえ、⑤機織り、⑥仕上げ、切断となります。少し、要約して記してみましょう。

「①原材料の葛の刈り採りは五月下旬より夏至の頃まで行われ、五月の一番つるが最高の葛苧くずおがとれた。遅くなると硬くなって光沢が悪くなる。葛蔓は根元から発育したもので地面に張っているもの(這蔓はえつる)が良い。刈り採りは、両端の尖った山鉾(樫材)を肩にして山に行き、蔓の葉を片手でしごき落とし,一尋(152㎝)か一尋半の長さに切り、何本かを径一尺ほどの球にして、卵形に押しつぶしてぐるぐる巻きにして束ね、山鉾に通して背負い持ち帰る。一斤の葛糸を取るためには、二回は通わねばならなかった。

②大釜に湯を沸かし、球状の蔓をうず高く入れて煮る。これは、発酵を容易にするためのものである。次に、釜から取り出して手でもみほぐし、むしろの上に並べた蔓を皮部と芯に引き剥ぐ。その際、必ず根元をそろえて一握りずつ束にして括る。それを莚や藁にくるみ込み、風の通らないところで、一日に二、三回、水をかけてうませる。(これをネセルというが、発酵させることである)真夏で二日ほど置いておく。

よく発酵した蔓は、指で押すとヌルヌルと黒皮がはがれる。これを流れ川に運び、根元を左手に持ち、右手で枝先の方にしごいて黒皮を洗い流すと、光沢のある靭皮じんぴが現れる。これを葛苧くずおと呼ぶ。それを軒下の竿にかけて乾燥させる。

③少し日をおいて、乾燥した苧を海水に二、三時間浸して柔らかくする。繊維を糸のように割き、両手の親指と人差し指で撚りをかけて糸を継いでいく。この時に、左手に灰をつけて、その先端をなめて潤しながら作業を行う。こうして結び目をつくることなく、糸を撚り継いでいくことになる。この葛績くずうみをクズウンという。糸績みのおわった糸は、苧桶に入れていく。この苧をなめて、手の滑り止めの灰壺に指先を差し込む所作を「佐志の女は皆灰をなめる」と俚謡りょうにうたわれた。この後、糸車で撚りをかけ、枠に巻き取って糸が出来上がる。

④機にかける糸は、タテ糸とヨコ糸では工程がわかれる。整経はタテ糸の準備、それからヨコ糸はに納める。その後、筬通おざどおし、経巻き、綜絖そうこうかけを行い、機にかけるのである。(この工程はなかなか、言葉では説明が難しく、この稿では省きます。)

⑤次に機織りになるが、この部分が平織りの織物とモジ織りの特徴である捩(もじり)織りとの違いになる。つまり、タテ糸がヨコ糸に上下に位置するだけではなく、互いのタテ糸が捩れながらヨコ糸を組織するように作業される。(図参照) 所要の糸の量は、一反に、タテ、ヨコ糸合わせて二斤(320もんめ、約千グラム)要した。

⑥最後に、そめがなされるわけであるが、漁網の場合は保存のため、柿渋のタンニンが多かったが、大正年間の記録にはカッチという南方の海浜に自生するマングローブの一種の樹皮の煮汁を使ったものもあった。衣類としては、自家製の藍染め、消し炭の灰色、椎の木の皮の渋色染等もあった。いずれも、はげ止めに大豆汁に漬けた。」

さて、このように、その工程は経験と永年によって蓄積された技術のこつというものがあったことが、細やかな手順に見ることができるようです。もう少し、そのことについて触れながら、モジ織りの辿った道筋を考えてみましょう。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2020年11月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。