末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第38話

古代人は何を着ていたか④
ー布となった糸ー

前回に書きましたが、漢字としての「綿」と「布」という文字は時代によって使い分けがあり「木綿」という文字も示しているものが異なり混乱します。

簡単に言いますと、古代から室町時代以前は、「綿」は真綿まわた、つまり、蚕の繭(くず繭)を煮てほどいて引き延ばしたもので、絹綿けんめんとも言います。布団にも使われます。布団を自宅で干したり洗ったりする際に、中身の綿を替える際に、この真綿で包んでいました。そんな記憶を持っている方がいませんか。それが、室町時代以降に植物の綿が伝わり、混乱しないように木の綿と書いたのでしょう。そこで、古くは「木綿」と書いて、「きわた」と呼んでいたようです。唐津の内町の木綿きわた町はその呼び方の名残かも知れません。ややこしいのは、先にも書きましたが、『日本書紀』等にはすでに「木綿」と書いた記録があり、これはかじのことであるとしました、その際は「木綿」は「ゆう」と呼ばれたといいます。

このように「綿」は、日本人にとって、柔らかな繊維の意味で使われた文字だったのでしょう。後に絹のところで説明するつもりですが、三世紀の日本の様子を知る事が出来る貴重な記録である『魏志倭人伝』には、「禾稲かとう紵麻ちょまを植え、蚕桑緝積けんさんしゅうせきして、細紵縑緜さいちょけんめんを出す」とあります。禾稲かとうは「いね」の事、紵麻ちょま(苧麻)は「カラムシ」の事ですね。次の部分は、養蚕を行って糸を作り、細紵さいちょは(カラムシから作った糸で織られた布)、けんは(かたく織られた絹布)、めんは(繭から作った真綿)を作ると書いてあることになります。

弥生時代の終わり頃から古墳時代の始め頃の日本での織物の姿がよくわかるものです。弥生時代の甕棺や古墳から出土する。剣、矛、戈等の武器や鏡等の青銅器や鉄器に絹や麻の繊維が付着して発見されます。恐らく、何らかの布に包まれて埋葬されたものと考えられ倭人伝の記録が正しいことが分かります。

さて、最初の植物繊維、大麻や苧麻の話に戻りましょう。前回引用した柳田国男が表現した、古代の布「荒栲あらたえ」には、かじで織った「木綿ゆふ」だけではなく、くずで織った「葛布くずふ」、藤蔓ふじづるこうぞの皮で織った「太布たふ」と呼ばれるものもありました。いずれも、ごわごわとして硬そうなイメージを持つ布です。当時の衣料の原料であった苧麻は、自生のものから次第に畑に植えられるようになったようです。『万葉集』には、多くの麻(苧麻)を題材とした歌がみられます。

「麻衣着ればなつかしの紀の國の   妹背の山に麻蒔く吾妹」(一一九五)

「庭立つ麻手刈り干し布さらす    東女を忘れたまふな」(五二一)

前に、律令時代には都に遠い東国では、交通の便も悪いため、調・庸物の中心が、軽量で輸送に便利な「軽物かるもの(かるもの)」と呼ばれた粗織あらおりの調布(麻製品)と書きましたが、これらの歌は、そうした背景が読み取れるものです。

麻苧あさおらを麻笥おけたすきまずとも    

 明日着せさめやいざせ小床に」(三四八四)

苧麻の皮の繊維をばらして、糸にんでいる様子が読まれています。夜遅くまで績んだ糸を麻笥に入れている妻をみて、明日着るわけでないから、もう寝ようよという夫の呼びかける光景が見えてくるような歌です。後に生産のところでもう一度触れますが、苧績おうみ(糸を作る作業のこと)は限りない忍耐のいる仕事でした。

こうして布にされた麻製品は、まさに荒栲であり、繊維としては強靭なのですが、弾力性はなく、保温に至っては落第で、冬の衣料としては役立ちませんでした。

その所為か、有名な山上憶良やまのうえおくら(やまのうえおくら)の「貧窮問答歌ひんきゅうもんどうか」の中には


「…寒くしあれば麻衾あさぶすま引き被り、布肩衣有りのことごとく着襲きそえども、寒き夜すら我よりも、…こごゆらむ妻子はによび泣くらむ」


と麻を何枚も重ね着しても寒さが耐えられないというものがあります。寒さを阿波(徳島)の祖谷山いややまでは、「太布六枚の寒」とか「七枚の寒」とか表現したといいます。まさに衣類に関しては、庶民は泣くような寒さをしのいできたということです。
(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2019年12月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。