末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第37話

古代人は何を着ていたか③
ー布となった糸ー

ここで触れておきたいことを書きます。この原稿の題は当初、「麻、絹、木綿」というものにしようと考えていました。それは、古代以来の日本人の衣装の素材となったものが日本にもたらされた順序であると考えていたからです。

今回、「古代人はなにを着ていたか」というテーマで扱う古代は、縄文時代以前から奈良時代までであり、その後の姿は本来のお話の領域ではないのですが、その後の時代、とくに江戸時代の話をしないとこの衣装の課題に応えることはできません。私が冒頭で提示した歴史の誤解もこうしたものを説明していないとわからないと思うからです。

広義の麻(つまり、苧麻ちょまを含む)は縄文時代、絹は弥生時代、木綿は室町時代末までに日本にもたらされたと考えられています。この事は古代人が何を着ていたかを考える重要な事なのです。

民俗学者、柳田国男が大正13年に発表した『木綿もめん以前の事』という文章があります。木綿の普及による変化を考察した名文です。
少し引用します。

「単純なる昔の日本人は、木綿もめんを用いぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。木綿の若い人に好ましかった点は、新たに流行して珍しかったというほかに、なお、少なくとも二つあった。第一に肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠くかつあまりにも滑らかでやや冷たい。柔らかさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が勝っていた。第二にはいろいろの染めが容易なこと、これは今まで絹階級の特典かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでもそまった。」

と記し、木綿の普及の要素に肌ざわりのよさと色染めの容易さをあげています。

柳田はこの論文で、「木綿の幸福」だけではなくその災禍も、鋭く指摘しています。そして、木綿以前の日本人が持っていた衣類を「荒栲あらたえ」と概括して称しました。この言葉は、古代人の衣類の総称として、その持っている特徴である野生植物を利用した柔軟性が低く、染色し難い様子をも示すものと言えます。

古代人の衣料原料については、前回説明しましたが、多様な植物の利用があったと考えられるわけですが、つまりは、様々な身近な植物を利用したということなのです。衣料の生産は、原料の獲得、紡績そして織布といったように、糸の生産、そして布の生産に至る工程を経て、作り出されるものです。こうした工程をすべて、自給的に行ったことから始まると考えていいでしょう。

さて、そのなかでも麻は代表的な「荒栲あらたえ」の素材でした。言葉を厳密に捉えると、麻は植物としてのアサ(クワ科)である「大麻あさ」と「苧麻ちょま」とに分けられます。苧麻はイラクサ科の植物であることは先述しましたが、学名ではイラクサ、ヤブマオ、アカソ、カラムシ等の山野に生育する背丈が二メートル程にもなる多年生草木です。苧麻はカラムシのことをさすのですが、地域によっては他のイラクサ科の植物の場合もあり、イラクサは蕁麻じんまとも書かれ、亜麻あま黄麻おうまも麻と書かれる場合があり厄介です。それだけ、名前や呼称がさまざまであることは、衣料の原料になる植物が地域ごとのにあったことの証でもあるわけです。

『日本書紀』の持統天皇七年三月の条に「天の下をして、くわからむしなしくり蕪青かぶらなどの草木を勧め殖ゑしむ」とあり、紵=苧麻の生産が奨励されたことが分かります。それは、律令国家の成立とともに、税制の確立が目指され、租・庸・調の制度が制定されました。各地の遠国の調・庸には軽量で運送に耐えられるものが選ばれ、東国では多くが布と絹・綿(真綿まわた)でした。この場合の布は、織物一般をさすものではなく。絹と区別された麻織物のことです。また、綿(真綿)は蚕の繭から作る絹綿けんめんのことで、古代・中世を通じて記される「綿」はこの絹綿のことです。段々、ややこしくなってきましたね。

次回は、少し語句の解説をしましょう。(続く)

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2019年11月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。