末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第36話

古代人は何を着ていたか② 
ー布となった糸ー

話を戻しますが、教科書や一般向けの歴史書でみる古代人の衣の色や素材表現に、少し違和感を覚えています。この描かれたイメージが皆さんの古代人の衣服の姿に定着していること、それと同時に、古代人の姿に誤解を生んでいるのではとも思っています。

そのことの意味を説明しましょう。多くの画像が、白い柔らかな素材の衣類を着ている古代人を描いています。少し、丁寧なものには、縄文時代には毛皮の図を多く描き、弥生時代の人々の絵では、白い素材のものに代えて描き分けています。この「白い」と「柔らかい」という点が疑問なのです。

遺跡から発見される資料のうち、日本の土壌の性格から有機質の素材が残ることは稀です。近年は考古学の調査の技術が進歩して、低湿地と呼ばれる外気に触れない深い地下に埋蔵され、しかも、地下水の浸透によって安定した環境が保たれた場所から、植物質も動物質も合わせて多くの有機質資料が発見されるようになりました。そのことによって、衣類の検討だけではなく、多くの情報がもたらされるようになりました。

その端緒(たんちょ)となったのは、1975(昭和50)年の福井県三方郡(みかたぐん)の鳥浜貝塚(とりはまかいづか)の調査でした。鳥浜貝塚から縄文時代の草創期(そうそうき)~前期とされる約一万年前~六千年前の地層から多くの加工された植物遺体が出土したのです。出土した植物は、大麻(アサ)、アカソ、タヌキラン等の植物でした。以来、研究者は地下の植物遺体を探し始めます。それでも、良好な調査環境に恵まれることは少なく、発見されるものは限られているのです。そこで、研究者は、別の視点から復元が出来ないのかといろいろと工夫してその素材を探ってきました。

幸い唐津地方等の九州地区には、縄文時代晩期に組織痕土器(そしきこんどき)と呼ぶ、鉢形の土器の側面や底面に繊維を押し付けた(正確には土器を押し付けて着いた痕跡ですが)跡がある土器が多くみられます。この土器の繊維痕跡から、多様な縄文人の植物利用の様子が読み取れるのです。唐津地方の遺跡から出土する組織痕は、網目、蓆目(むしろめ)が中心で、菜畑遺跡の晩期後半には、平織(ひらおり)のものも認められました。これらの土器に使われたものはどんな素材だったのでしょうか。

人の生活には、様々な植物が利用されてきました。食料や生活道具だけではなく、衣料の素材としても多用されたと考えられます。身近にある植物の性質、その繊維をうまく利用する知恵も、様々な技術と共に生み出されたようです。

鳥浜貝塚の資料のうち、縄文時代草創期のものには、大麻(麻)を素材とした撚(よ)りのある縄があり、前期の資料には、驚くことにアカソを素材としたアンギン様の編物が観られました。アンギンとは、現在も制作される編布のことで、カラムシ、アカソ、イラクサ等のイラクサ科の植物を原料としてつくられた編物のことです。

京都工芸繊維大学の名誉教授であった布目順郎(あみめじゅんろう)先生によると、縄文時代にみられる繊維製品の素材として使われた植物には、大麻(アサ)、アカソ、タヌキラン、ヒノキ、苧麻(ちょま)(カラムシ)があり、弥生時代~古墳時代には、藤(ふじ)、科(しな)、楮(こうぞ)、穀(かし)、葛(くず)が加わるといいます。日本経済史の立場から、日本の民衆の生活文化の研究を行った永原慶二(ながはらけいじ)氏によれば、古代から中世を通じて、民衆衣料の素材とされた繊維は、「絹の麻の他には、藤(ふじ)・葛(くず)・楮(こうぞ)・穀(かじ)・栲(たく)・科(しな)(榀)など」があるとしています。このうち、楮と栲は同じもので、栲は楮の古名(こめい)といいます。『日本書紀』、『古語拾遺(こごしゅうい)』にみられる「木綿」は「ゆふ」と呼び、後の世の木綿(もめん)ではなく、穀(かじ)の異名だといいます。本居宣長の『玉勝間(たまかつま)』には、「木綿といひしものは、穀の木の皮にて、そを布に織りたる」ものと説明しています。この「木綿」の字と読み方と何を指すのかについては、少しややこしいので、後に詳しく説明します。

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2019年10月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。