末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第12話

粉にするはなし

約3万年前、この地方に、いや、今のところ(例の旧石器時代の遺跡の捏造問題があり、日本の前期・中期にさかのぼる旧石器時代の人類遺跡はことごとく偽物であるがごとく考えられています。従って、今のところという表現を使います。)この地方で人類の痕跡が確認されている今から3万年前以降のことを考えてみます。更新世後半期、氷河期という地球の寒冷期が終焉を迎えようとしていた2万年頃を境として温暖化が始まりました。とはいえ、まだ、今よりもずいぶんと寒く、ようやく、ユーラシア大陸から日本列島が切り離され、温かい時期がやってくることになります。

唐津の周辺は、特に、上場台地と呼ぶ東松浦半島地域は、古くからこうした旧石器時代の遺物が大量に拾われ、遺跡が数多く発見されていました。こうした時代は、狩猟を中心とした古モンゴロイドの拡散の時期でもあり、北からマンモス、ヘラジカ等のマンモス動物群を追って、西からはナウマンゾウ、オオツノシカ、野牛等の黄土おうど動物群といった大型哺乳類を狩りの対象とする人々が列島に侵入してきた時代でした。3万年前は亜寒冷期と呼ぶ、やや暖かい時期で、現在の気温から年平均3℃~4℃低い気温だったと考えられています。これが約2万年前の最後の寒冷期になると、年平均気温が7℃~8℃という低い時が来て、その後、再び温暖化に向かっていくことになります。岩手県の花泉遺跡や長野県の野尻湖遺跡では、泥炭層でいたんそう被覆ひふくされた。こうした極めて古い時代に自然堆積物が残され、動物群の遺体が発見されています。こうした遺跡は、発見当初から火山の噴火の歴史と密接に関係していて、遺跡の多くが火山灰や火砕流の堆積下に包まれるために、その噴出年代によって石器の時代を推定することができます。この地方の年代の決め手になっている火山噴出物は、①約9万年前の阿蘇第4火砕流、②約2.8~3.0万年前の姶良丹沢火山灰あいらたんざわかざんばい【ATと呼ばれる】、③約7,300年前のアカホヤ火山灰です。

しかし、この地方は中九州より以南地域に比較して火山灰の体積は厚くありません。それは火山の噴出源が南九州にあるために、火山灰が偏西風に乗って東に流れ飛ぶためではないかと最近まで考えられていました。そこで西九州地域ではあまり堆積層の存在が期待できませんでした。

ところがです。その火山灰が続々と発見され始めたのです。松浦川の東岸域、唐津市の東側、旧浜玉町や旧七山村にあたる、玉島川流域の神崎花崗岩かんざきかこうがん開析谷かいせきたにを中心に発見されたのです。阿蘇の火砕流や姶良あいらカルデラの噴出物がこの地方まで影響を及ぼしていたのです。驚くような出来事です。さて、今回はこうした火山灰による壊滅的な自然界の変化と、地球温暖化が進行することによる植生の変化が、旧石器時代末から縄文時代の始めにかけて狩猟採集活動をしていた人々の生活に大きな影響を及ぼすことになった証拠をお話ししてみたいと思ったのです。

旧石器時代の遺跡からも、小型の鶏卵大の砂岩さがん等の楕円形の転石利用の石器(叩石、敲石)が出土します。これは、ガラス質の黒曜石こくようせきやサヌカイトといった鋭い刃先を作り出す石質とは異なり、外縁に細かい凹凸の痕跡を残すことから、石器制作か植物性の果実などを叩き潰す道具、ソフトハンマーではないかと考えられていました。例として、カラハリ砂漠の狩猟採集民であったサン人(かつてブッシュマンと呼ばれた)達は、ナッツクラッカーと呼ぶ木の実を潰して食べる叩石を携帯しています。これと同じもので、旧石器時代の叩石はこうした狩猟採集民の重要な道具と考えられていました。ところが、温暖化の進んだ縄文時代早期の狩猟採集民の居住遺跡(彼らは移動性の生活をしているので、キャンプ地か)では、狩りの道具とともに大量の大型の楕円形のお弁当箱のような石が発見されたのです。この石器は上下両面が扁平へんぺいになるまで滑らかにすり減り、しかも、側面はねじれた様に変形していることから、石を何度も同じ方向に(例えば、右手側もしくは左手側)前後に動かして物を磨り潰す行為を続けたことを示すものでした。これは、磨石と呼ばれるもので、台になる石とセットで植物(堅果けんか類の実)を磨り潰して使うものだったのです。

温暖化とともに、広がった落葉広葉樹から照葉樹の森は、堅果類の多くの果実をもたらしました。彼らは、その堅果類を磨り潰し食料とする方法を会得したのです。食べるという行為に、もうひとつ磨り潰して粉にして利用するという手順を考案したのです。

かくして、直接に食べられるものにのみ依存していた人々は、素材を加工する行為によって、料理という階段を一つ上ることになったというこんな話です。

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2017年7-8月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。