末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第9話

「鯉から鯛へ」の物語

このシリーズの初回「焼塩壺」の話で触れたように、鯛は魚の王様と言われます。しかし、そうなったのは江戸時代の事で、それまでは鯉がもてはやされました。では、どうして鯉から鯛に変わってしまったのでしょうか。今回はそのあたりの話です。

徒然草の第百拾八段には、鯉のあつものの話に、「鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり」とあり、室町末の職人尽くし「七十一番歌合」でも包丁師が調理している魚は鯉なのです。包丁式という調理儀礼の絵図の多くでも、鯉がまな板に乗っています。寛永20年、近世料理文化の幕開けを象徴する出来事である『料理物語』という冊子が出版されます。徹底的に実用的知識のみを記述した、料理人若しくは実際に料理に携わる人のための料理本です。この材料の海の部の筆頭に鯛があげられているのです。以来、鯛は、「焼塩壺」で説明したとおり、元禄の『本朝食鑑』にいう「本邦鱗中之長」となるようです。ではどうして鯉から鯛になるのか。どうして古くは鯉が一番であったのか。このあたり、少し紐解いてみましょう。

日本の食文化は、仏教の伝来以降、天武天皇四年(675)年の肉食禁止令によって、建前上は「牛、馬、犬、猿、鶏」を食べることが禁止されます。このことから、古墳時代以来、網漁撈の進歩と相まって魚食が普及し後の日本的な食事形式が出来上がる元となったと言われています。貴族社会で忌避された肉食も、一般庶民社会ではそうではなくて、「鹿の肉」、「猪の肉」はもとより、様々な四足獣が美味なるものとの本音が見えるのが中世社会の実態でした。しかし、日本料理の原点となる本膳料理は貴族社会から生まれたものであり、魚食主体の文化が定着していく事になります。

視点を変えます。弥生時代の水田普及は、農耕技術、つまり灌漑農耕かんがいのうこうという水田管理とそれによって派生する様々な文化、無論、食文化も網羅するものだったと考えられます。

現在でも、長江流域やインドシナ半島の水田地帯では、水田を利用した漁撈ぎょろう活動が盛んで、水田で淡水の魚を育てて利用するシステムが存在します。田植えと同時に稚魚を入れ、収穫後に魚を捕獲して食用にするという合理的な方法です。小魚は塩で漬け込んで発酵させて魚醤ともします。食文化の基本となるものです。淡水魚にとっても、水田は産卵にもってこいの浅瀬であり、稚魚の生活空間としても最適なのです。

かくして、ナマズもドジョウもフナも水田で育つことになり、ヒトはその恩恵にあずかることになるのです。こうした、日常的な漁撈活動を最近、水田漁撈と位置付けて考えてみようという取組があります。この視点で研究を続けている国立歴史民俗博物館の安室知氏は稲作農民の淡水魚食を重要視しています。

つまり、従来、考えられていた原始社会における狩猟(漁撈)採集社会で培われていた活動とは異なる漁撈スタイルが稲作の伝播と共に、新たに登場したのではないかという事なのです。この漁撈活動は今でいう養殖とされるものに近いものであり、危険を伴わない漁撈活動として合理的なシステムといえます。

かくして、稲作社会は淡水魚を利用することを定着させていくことになったと考えられます。つまり、タンパク源としての淡水魚食の定着、仏教伝来での建前上の肉食の禁忌、こうした要素が絡んで、貴族社会での魚食の料理形式が生まれたと考えられます。しかも、内陸部の都に生活する人々が容易に手に入る大型淡水魚は、「鯉」にしかずという事だったのではないでしょうか。

唐津地方の江戸時代の産業活動を描いた「肥前国産物図考」には捕鯨をはじめ漁撈活動が数多く紹介されていますが、思いのほか多くの河川漁撈も描かれています。つまりは、こうした農民の漁撈活動の延長としての河川漁撈が普及していたことがわかります。海に近い唐津の平野部でも、松浦川を中心とした河川漁撈があることが面白いのです。特に「掛網の図」で捕獲される鯉の大きさは驚くくらいのものです。

また、鯉にはさまざまな伝承が付きまといます。有名な登竜門の話も、もとは「後漢書」の李膺伝にあるもの。立身出世の例として、鯉が滝を登って龍になるようなものというたとえ話から派生したものです。これが転化して端午の鯉のぼりになったという事はご存じのとおりです。夢で鯉になって釣り上げられまな板で切られそうになる「夢応の鯉魚」の話は雨月物語です。これも身近な生き物と殺生応報のたとえ話でしょう。

さて、こうした鯉等の淡水魚が遺跡で発見されるのは、実はごくわずかなのです。それは、淡水魚の骨が残りにくいという事にも所以します。そこで近年は、特徴的な部位の同定で突き止めることも研究されています。特に、コイ科の魚は、喉にある歯、「咽頭骨」が残りやすく特徴がありそれで同定できるのではないかと考えられています。

かくして、稲作農民が食べた鯉は、近世江戸の物流の進展によって様変わりして、鯛に変わり、そのめでたい鯛が祝い膳にのぼるようになっていきます。江戸社会の安定化が食文化をも変えていったという。

こんな話です。

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2017年2月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。