末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第8話

「ブタ」論争のゆくえ

昭和56年(1981)の菜畑遺跡の発見は、稲作の開始時期を遡らせることだけではありませんでした。有名な中国の史書「魏志倭人伝」に記載された一文「其の地、牛馬虎豹羊鵲無し」という事から、従来いわれていた日本の農業の開始期には、家畜は存在しないという定説をも覆す発見があったのです。今回はその顛末をお話します。

はじまりは、発見当初からでした。菜畑遺跡の発見と相次ぐニュースの連続は、毎日、記者発表の時間が設定されるほど注目されていました。世にいう、報道記者さんたちの「夜討ち朝駆け」という記者魂を直に、肌で感じるような白熱の取材が連日続きました。

イノシシの頭骨、顎骨の祭祀があるという事が確認され、それが狩猟の儀礼行為ではなく、農耕儀礼ではないかと指摘したのは、菜畑遺跡の調査に自然科学分野の導入を提言され、自ら、そのチームの編成に尽力されたのは当時、名古屋大学の教授渡辺誠先生でした。

先生はこの祭祀行為を、水稲栽培と伴って伝来した風習であろうとされたのです。その上で、奈良県、大阪府などの菜畑以外の弥生時代のイノシシ祭祀をも、こうした風習の東進伝播として、稲作の拡散に伴うものと理解しようとされました。昭和57年(1982)の報告書段階ではこうした見解を発表したのです。

ところが、平成元年(1989)に、国立歴史 民俗博物館の西本豊弘教授が、西日本の弥生時代の遺跡から出土する「いわゆるイノシシ」には、形質的に家畜化したブタが含まれていると発表されました。実際に菜畑遺跡の「いわゆるイノシシ」を観察された先生は、間違いなく、これは「ブタ」であると断言されたのです。形質的には「後頭部の平面形が丸みを帯び、側面観も後頭部が高いなどの特質があり、しかも歯槽膿漏という家畜特有の病根が見られることから特定できるとされたのです。

新たにもたらされたブタであれば、農耕儀礼と密接に関係した文化がもたらされた、つまり家畜がいたことになるのです。菜畑遺跡の展示施設「末盧館」の開館のときでしたので、展示は弥生ブタをクローズアップして、稲作の開始、家畜の存在とまさに、日本農業の原点という大発見を顕彰する施設となったのです。しかし、話は、ここで終わりません。

平成12年(2000)、名古屋大学理学研究所の小澤智生教授が、「弥生ブタの否定」という論文を発表されました。縄文・弥生時代に出土した古代ブタの遺伝学的データを分析して、東アジアの各地の現存ブタ及び野生イノシシの個体と近似性を確認した結果、DNA塩基配列から検討した弥生ブタは二ホンイノシシであり、古代ブタは存在しないというまことに驚くべき発表でした。

ところが、この小澤説に対して、当の西本先生は平成20年(2008)に、「それでも、ブタはいた」と反論され、形質特徴の細かい説明とともに、日本のイノシシと大陸のイノシシは同種であり、中国で家畜化されたブタと混血しても遺伝子レベルでは、ブタと野生イノシシでは、同一グループと推定されるため、理由にならず、弥生ブタは存在したと説明されたのです。研究者のあくなき追求と論争が、事実の探求と学問の進展には不可欠なのだという事を思い知らされた論争でした。

こんな話です

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2017年1月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。