末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第4話

「貝杓子」は語る

今回は、話が二千年ほど遡り、弥生時代のことになります。とはいえ、古い時期だけでなく、つい戦前まで使われていたという「もの」であり、むしろ、そのことの方に驚かされるものです。

平成7年(1995)、唐津の西、みなと雲透くもすき地区で圃場整備事業にともなう発掘調査が実施されました。標高60mの沿岸部に近接する台地の上に展開する弥生時代の集落跡の調査でした。

調査が進むと、この台地にも微妙な凹凸、つまり小さな谷が入り込んでいて、この谷を埋めるように貝の廃棄堆積層、貝塚が発見されました。大量のサザエ、アワビ、イソキビ等の岩礁生の貝に、シカ、イノシシ等の哺乳類の獣骨、マグロ、フグ、タイ類等の魚骨が堆積していたのです。広さは、15m×6.2mの約62㎡、25㎥の規模は小さいながら、時代が弥生時代中期前半〜中期中頃という極めて限定的な時期の貝塚であることがわかりました。こうした貝塚は、考古学者には垂涎の情報源です。本来、腐敗し酸化によって消滅する自然遺体の一部が残されることは、当時の生活史を復元する絶好のチャンスであり、しかも、時代が限られれば限られるほど貴重であるということは、第1回の「焼塩壺」で述べた通りです。そこで、調査では、貝塚を完堀して、全ての堆積物を取り上げるという、前代未聞の試みに挑戦し、水洗選別(水で土を洗い、ふるいにかけて細かい骨などを選別すること)によって投棄された貝類等の内容や量を検討することにしました。「言うは易し、行うは難し」のたとえどおり、これはとても大変な作業でした。取り上げた貝塚の堆積量は、約2000袋(20kg/袋)となり、3年経た報告書段階での粗洗い率が65%がやっとで、遅々として捗らない作業に苛立ちながらも、辛抱強く進めてもらいました。

この作業の中で、今回の話題の「貝の加工品」が見つかったのです。当初は「貝の小さな破片に穿孔痕(穴を開けた痕跡)がある」と自然遺物の分析を担当していた奈良崎和典氏が指摘されました、2cm角程度の破片だったので穿孔痕という観察眼に驚くばかりでした。ほどなく、それが事実であることは、水洗選別が進むとともに、大型の素材がはっきりとわかる破片と穿孔のある製品が確認されたことによって証明されました。長年、自然遺物の分析に携わってきた専門家の眼力には兜を脱ぎます。

それはイタヤガイという二枚貝の貝殻の側縁に2ヶ所の穿孔を施した「貝杓子かいじゃくし」という、貝の殻を素材にした鉢や鍋から掬い取る調理具もしくは配膳具はいぜんぐとして使われる杓子だったのです。

雲透遺跡出土の貝杓子

杓子は弥生時代には木製品が数多く発見されています。当然、中国では、いん代からという言葉があり、大型で凹をもつものと小型で平たいへら状のものがあり、前者が杓子の機能を持つものとなり、後者がさじとして分離していきます。日本では、米食が流入してから、粒食つぶしょくが生まれ、次第に食卓から匙が消滅し、箸が食膳具しょくぜんぐとして確立します。一方、飯配膳具めしはいぜんぐは杓子が女房言葉の杓文字しゃもじとなって定着し、掬い取り具は凹部の形状からお玉をつけてお玉杓子たまじゃくしと呼ばれるようになります。絵巻物を見ていくと、江戸時代にも汁物を注ぐ道具としてこの貝杓子が頻繁に登場します。近代の台所事情を詳述した古島敏雄氏は、この貝杓子は大阪や名古屋で量産され、明治初年期には一般的な汁をよそう道具だったと指摘しています。

調べると面白いもので、「倭名鈔わみょうしょう」では匙の事を「賀比かひ」と呼んだようで、素材が貝であったことを指しています。これは、フランス語やラテン語、ギリシア語でもそうで、全て貝殻の意味となり、匙が貝製品に根源を持つことがわかります。つまりは、手近の道具を指す時に、「かい」と呼べば「貝杓子」のことであったと考えられるのです。弥生時代から近代までつながる台所の道具が、湊の貝塚から出てきたという。

そんな話です。

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2016年8月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。