
「桶」のはるかな旅
人の生活道具のうち、容器として使われたものには、土器や陶磁器の他に、曲物、刳物、挽物、結物と呼ばれるものがあります。曲者は板材を薄く剥いで円筒形に巻き、桜や樺の皮で綴じて容器としたもの。刳物とは、木材を削り出して容器城の物をつくったもので、特に、轆轤などで加工して制作したものを挽物と言います。木胎の漆器などの多くは、この挽物になります。
最後に、「結物」とは、桶、樽のように短冊状の板を束ねて、竹等の箍で締め上げて作った容器の事を指します。蓋の付くものを樽といいます。今回は、この結物の桶の話を取り上げます。

平成12年に、湊八坂神社(厄神さん)の裏の圃場整備事業で、鎌倉時代〜室町時代の館跡が検出されました。館跡は、湾から奥まった砂丘の上に形成されたもので、堀立柱建物跡、井戸、泉水、土壙等からなり、幅2m以上の環濠によって取り囲まれたものでした。遺構からは大量の国内外の陶磁器や木製品・漆器などが出土しました。特に輸入陶磁器と呼ばれる中国、朝鮮やアジア諸国の陶磁器や国内の東播磨、常滑、備前等の陶器類や吉備系や京都系の土師器類は、この館の主が盛んに海外交易や国内の流通によって文物を手に入れていた豪族であったことを示すものでした。
この館跡の井戸底から、井戸側、もしくは底枠として使われた木製大型容器類が出土したのです。刳物の木臼を転用したもの、大型の曲物、そして桶といずれも、底を抜いた形で井戸底から出土しました。これらの井戸遺構の年代は、この遺跡の最盛期にあたる13世紀前半〜14世紀前半と考えられ、鎌倉時代を中心とした時期が与えられるものでした。調査指導の縄文研究者で民具学にも詳しい名古屋大学の渡辺誠教授が、「桶としては古いものではないか。半島、大陸との関係を考えるべき資料」と指摘されたのです。
「桶」の歴史を紐解くと、日本では、古くから「おけ」もしくは「をけ」と読んだのは曲者、捲物や刳物のことでした。本来は、績んだ苧を入れる苧(麻)・笥(を・け)からきたものです。
それが、13世紀後半〜14世紀初頭までには、絵巻物にも桶が登場するようになり、この新しく導入された結物を桶、もとからの「をけ」を曲者と呼ぶようになったといいます。つまり、桶は思ったより、新しく登場した容器であるという事なのです。では、この桶や樽はどこから来たのでしょう。
桶や樽の歴史を詳しく調べている石村真一氏によると、桶は樽の歴史を詳しく調べている石村真一氏によると、桶はギリシア文化を経てローマ初期に完成する容器であると説明されます。それが、後漢時代に中国に伝播し、11世紀初頭〜12世紀初頭になってようやく中国でも一般的製品として普及し、それまで箍に使われていた蔓や金属が竹に変わり、北宋の独特な桶・樽文化が成立し、それが日本に伝播したというのです。その証拠に、中国宋代絵画の至宝、張擇端の「清明上河図」(北京故宮蔵)には12世紀前半の豊かな桶・樽文化の普及の様子が、都市、開封の庶民生活と共に描かれています。
とすれば、湊松本遺跡の井戸側に埋められていた桶は、遠いはるかな旅をして日本にもたらされたものという事になり、海外文物の行き交った松浦の地を証明するものといえます。この桶によって、その後、日本の味噌・醤油・酒ができたことを思うと、大変な出来事でした。
こんな話です。
Profile
田島龍太(たじまりゅうた)
明治大学政治経済学部卒業
佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務
退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。
この記事はからっちゅ!2016年8月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。