末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第2話

犬形土製品の謎

子供の数より、犬の数が多いとも言われる現在、今回は犬にまつわる話をします。

昭和61年、有浦川の上流地点、山道集落の谷奥、草履作地点の発掘調査で小さな動物形の土製品が一個だけ出土しました。

時代は、土器などから15〜16世紀の室町時代末と考えられ、馬か犬かよくわからず、報告書では、出土地点が湧水地でもあり、水との関係から祭祀さいしに用いられた、奈良時代から始まる「土馬」のなれの果てではないかと論考しました。

平成5年、関西近世考古学研究会の鳥谷和彦氏が、それまで、「犬の土人形」と呼ばれていたこの土製品に「犬型土人形」という名称を与え、全国的な出土例を集成しました。

無論、その中に、佐賀県の例として草履作遺跡のものも加えられていました。

さらに、同年、唐津城でも、埋門南地点の調査で、まったく同じ動物形の土製品、「犬形土製品」が出土し、一緒に出てきた陶磁器類から、16世紀代のものであることが確認されました。

遅れて、10年後の平成17年には、名護屋城跡水手曲輪くるわからも、かわいい一点が出土しました。

この「犬形土製品」というのは、鳥谷氏によれば、江戸時代にある「型づくり」の製品ではなく、「手づくね(手びねり)」を特徴とするもので、畿内では、大阪城と堺環濠都市遺跡(さかいかんごうとしいせき)が中心で22か所と極めて偏った出土を見るものであるというのです。その後、大阪城三の丸で102点という驚く数の出土がありましたが、織豊期しょくほうき、特に豊臣前期〜後期の桃山時代にピークを持つ珍しいものであることもわかってきました。しかし、どうしてこの犬形土製品が、このように豊臣関係の遺跡からだけ出土するのでしょうか。

犬の民俗を調べると、犬には服従して身を守り、見えない魔性を感知する能力があるといわれ、守り犬の思想があり、また、犬の多産と安産が相まって、産褥さんじょくの信仰が生み出されたとされます。つまり妊婦や子供の守犬という思想が犬の人形を生み出す元にあり、伏見人形や犬張子もこうした思想を背景に生み出されたものと解釈されています。奈良の法華寺ほっけじでは、現在も、1〜5cmの大中小の犬の土人形が尼さんたちによって手作りされて、販売されています。伏見の段重ね水引き結びの犬人形はかんの虫に効くものとされています。

され、件の犬の人形ですが、少し筆を走らせると、実は豊臣政権の持っていた問題点と密接に関わっていたのではないかと考えるのです。大阪城の建設、京都の新都計画など、政権確立の布石が進むほど、秀吉には弱点として、政権継承者を持ちえない悩みがありました。天正18年の鶴松の誕生と幼い死は秀吉の狂喜と悲嘆を生み、文禄2年の淀君の懐妊と男子、「ひろい」、後の秀頼の誕生には、秀吉の歓喜の吐露が手紙にも表れています。鶴松の幼名、「棄て」、次の子を「ひろい」と呼ばせた秀吉には、「棄てた子も拾った子もよく育つ」という当時の民間信仰に臆面も無く縋り付く、老いた父親の姿が見え隠れします。法華寺の犬のお守り、五穀豊穣、災難厄除役、そして何より安産と子供の生育を祈願されるもので、現在の本堂は、淀君と秀頼の寄進によるものといいます。藁にもすがる晩年の秀吉の願いこそが、この犬形土製品を生み出したものであり、桃山時代の限られた場所でしか出土しない一時期の流行のような様子の説明は、そうした主人に追従した家臣団の姿にあったのではなかったかと。

こんな話です。

文 田島龍太

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2016年6月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。