末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第1話

焼塩壺の不思議

この地方の歴史に関わる話を書こうと思います。長く考古学の仕事に従事してきて、人が使ってきた道具を調べ、様々なことを見てきたように語ってきました。考古学は、ジュール・ヴェルヌが予想したタイムマシンという機械が発明されれば、役に立たない学問だと言われていましたが、最近はそうでもないかもとも思っています。

今回から、人に使われた道具、「もの」が示す事柄を紐解いてみます。

題して『末盧の「もの」がたり』のはじまりです。

この文章が掲載される頃は5月でしょうが、春でもあり、「花は桜樹、魚は鯛」というように、鯛には桜鯛という呼び名があります。『本朝食鑑』という江戸時代の書物には

「歌書に謂、春三月、桜桃の花開きて漁人多くこれを採る。故に桜鯛と謂うなり。」

とあり、季節がら、最初はこの鯛にかかわる「もの」を拾ってみましょう。

昭和53(1978)年頃から、かつての唐津城下町の調査が始まりました。当初、新しい(?)江戸時代の遺跡が発掘の対象になるという事など考えてもいませんでした。ところが発掘を繰り返すごとにわからないことに立ち往生していまい、それが身勝手な縄張り意識だったと痛感させられました。こうなると、俄然面白くなってくるところが、考古学徒の強み(弱み?)なのですが。

平成5(1993)年度の城下町の調査で、相次いで素焼きの大きさ10cm未満、口径5cm程度の小型の容器の破片が発掘されました。ちょっと目では、変哲のない素焼きの容器なのですが、その側面に刻印、つまりスタンプが押してあり、文字が読めたのです。調べてみると、これは「焼塩壺」という、中に粗塩を入れてそのまま焼いて容器ごと売られた食卓塩の容器でした。大阪の堺や京都で生産され始め、上方の文化として江戸に伝播して定着した食文化の産物であることもわかりました。しかも、この刻印は生産販売した各メーカーの名前などで、文字内容が時代とともに変化することもわかってきました。

この焼塩壺は、「かけしおだい」という鯛を食べるために、使い切りという極めて短い時間で消費されるものであるという、考古学者、垂涎の時間定規だったのです。

ところで、この話の落ちですが、本丸西曲輪から大量の鯛の骨と共に出土した焼塩壺に、文字が書かれていることがわかりました。その蓋には墨で焼塩とあり、「塩入」という文字まで刻まれていたのです。つまり、短時間で消費されるはずの焼塩壺が、唐津城の本丸台所では、塩入れとして長期に使われていたのです。貴重な時期比定の証拠が台無しになりました。

しかし、考えれば『肥前国産物図考』に示されるように、目の下一尺の大鯛が新鮮なまま食卓に上がる唐津の地で、しかも、豊富な塩の生産もあったわけで、この焼塩壺がいかほどの価値があったのかわかりません。江戸から持ち込んだ食文化の単なるステータスも、名ばかりだったのかもしれません。

こんな話です。

文 田島龍太

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2016年5月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。