末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第7話

「コクゾウムシ」を探せ

考古学に限らず、研究、特に科学的分野の研究は、常識という怪しい言葉に紛らわされて真実に到達できない場面が良く見受けられる。といっても、後になって気づく事なので、当たり前のことは、その時は当たり前なのだけれど、これがとてもやっかいなものなのです。例えば、戦前まで日本の考古学の世界では、日本に旧石器時代はなかったと信じられていました。つまり、火山灰が降り積る約一万年以前には人は生活していなかったというのです。今考えれば、驚くようなことが常識として通用していたのです。その常識を打ち破って、ブレーク・スルーしたのは、在野の一青年でした。彼は「曇りない眼」で、日頃通う関東ローム層の切通しから、確実に突き刺さった石(黒曜石)の槍を発見して、旧石器人の存在を確信したのです。学者が常識としていたことは、この一個の石器の発見で覆され、事実は明らかになり、三万年以上も前にも、日本に人が住んでいたことがわかったのです。さて、今回はこうした常識を覆す話をします。

菜畑遺跡が発見調査された、30年以上前から、考古学における自然科学の導入は、歴史学の新しい潮流として、とても新鮮な事実を伝えることになります。花粉、種子、動植物依存体、プラントオパール分析、そしてC14年代測定等が研究アプローチとして用いられました。現在の考古学の調査では、当たり前のことになっています。

土器の底や土器の作る胎土の中に、穀物の痕跡が残っているという研究を始めた学者がいました。もともと、土器の底部に圧痕という繊維などの跡が残っていて、思わぬ情報が提供されるということは分かっていました。

そこで、研究者たちは土器底に残された痕跡を何万点も調べることを始めました。特に、縄文時代の後半から弥生時代の初めにかけては、穀物栽培の始原を確認する作業として、とても有効な手段と考えられていました。首都大学東京の遠藤英子先生も、その一人で、菜畑遺跡の資料を根気よく調べられ、イネとアワを土器底から再確認していただきました。縄文時代晩期後半の炭化アワは北部九州最古の確認といえます。

こうした、圧痕あっこん調査の段階で面白いことに気づいた研究者がいました。熊本大学の小畑弘己教授です。小畑先生は、圧痕を探しているうちに奇妙なものに出会いました。

それは、昆虫の屍骸しがいでした。

体調3~4mmほどで、頭部に象の鼻のような長い口を持つ昆虫、「ゾウムシ」の仲間、「コクゾウムシ」だったのです。先生ははじめ、この米櫃こめびつに沸く害虫、コクゾウムシの発見に胸躍る思いがしました。なぜならば、「コクゾウムシはコメの害虫なのだから、コクゾウムシがいるとコメがあることにならないか」と考えたからです。しかも、「土器の圧痕に見られるコクゾウムシから、稲作の開始期が証明できる。」とも考えられたからです。

ところがです、現在、日本国中の51遺跡から325点発見された圧痕コクゾウムシは、縄文時代の早期にまで遡り、縄文時代を通じて発見される事実に直面することになります。先生ははたと考えました。どうも、コクゾウムシが食べているのは、コメだけではないのではないかと。そこで、圧痕の調査で分かってきた穀物類の中に、ダイズやアズキが存在すること、しかも、それが野生のツルマメや野生アズキではなくて、ヒトの手による栽培の過程に生まれてきたものだと突き止めたのです。野生植物は人の手で栽培されると、「栽培化微候ちょうこう群」と呼ぶ変化がおこるそうです。

これは、自然淘汰とうたと人為的淘汰によって、大型化やより収穫しやすいものに変わる「栽培化による適応微候群」というもので、①タネが飛び散らなくなる、②タネが大きくなる、③すぐ発芽するようになる、④穂の上でタネが一ヵ所に固まる等の変化で、耕作や栽培のために選択されたものと理解できると小畑先生は指摘します。しかも、コクゾウムシ等の穀物食害の昆虫類は、もともと自然の堅果類(けんかるい)を食性として持っていた昆虫であり、それが栽培マメ類やコメに食物を変化してきたという事実も突き止めたのです。また、コクゾウムシ自体も、①非飛翔性、②成虫の非摂食せっしょく性、③多化性、④休眠性の喪失という「貯蔵食物害虫化微候群」という難しい言葉なのですが、要は、うろうろと食物を探さなくても貯蔵庫には食べ物がたくさんあるし、食料がたくさんあるからどんどん子孫が増やせるようになったという事なのです。

ここで、常識というものに出くわします。縄文時代は移動性の狩猟採集民の世界であり、弥生時代の稲作が始まって定住生活になるという常識です。土器の底から確認されたコクゾウムシは、乾燥した貯蔵施設で繁殖した個体です。

とすれば、少なくとも何ヶ月も貯蔵する場所があったという事なのです。何ヶ月も食料保存できる施設を持つ人の生活する場所とは、どんなものでしょう。これは、少なくとも半年は同じところで生活するという、定住そのものではないかという事実に突き当たったのです。つまり、縄文人も定住していたのではないかという事なのです。鳥肌が立つ事実を数ミリの昆虫が伝えてくれました。研究は、まだ端緒(たんしょ)についたばかりです。昆虫が解き明かす歴史に注目です。

こんな話です。

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2016年12月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。