末盧の「もの」がたり

『末盧の「もの」がたり』第6話

「桃」の伝説

平成22年に奈良の桜井市にある纏向まきむく遺跡という邪馬台国畿内説の有力候補といわれる弥生〜古墳時代の代表的遺跡で、三世紀の大型建物と土壙が発見され、約2,000個以上の大量のモモの種が出土し、それが祭祀に使われたのではないかと注目されました。今回は中国原産のこの植物、「モモ」について考えてみます。

昭和56年に実施された縄文時代晩期〜弥生時代前半の菜畑遺跡の調査では、自然遺物と呼ぶ動植物の遺体、特に花粉や大型種子等の検出と同定も行われ、多くの成果を得ています。大型種子としては、「アブラギリ、イチイガシ、ヤマモモ、エゴノキ、オニグルミ、クリ、ヤブツバキ、スダジイ、イヌガヤ、モモ」が報告されています。花粉も含めて全体として環境を復元すると、当時の菜畑遺跡の周辺が温帯の落葉広葉樹から照葉樹林帯の植物群に被われていたことがわかります。注目すべきことは、栽培植物とともに、栽培種のモモの種が発見されたことです。菜畑の植物群の分析を担当された渡辺誠・粉川昭平の両氏は「最古のものと思われるが、外見は古形を呈せず、当初から良質のモモが導入されたのではないか」と指摘しています。つまり、栽培種のモモが日本で最初に登場し、菜畑にもたらされていたことになります。これも大変なことです。

菜畑遺跡出土の大型種子(モモ)

花木について、奈良時代、日本ではウメがもてはやされ、平安時代以降には、サクラがもてはやされるようになり、日本人の日常の美意識を醸成するようになりました。では、モモはどのように受け入れられたのでしょうか。

モモで連想するのは、歌人、大伴家持の


「春の薗 くれないにおう桃の花 下照る道にいでたつおとめ」

の歌です。

万葉の世界では、艶やかな中国文化の花として愛でられ、花そのものがイメージ化されています。しかし、本来のモモの植物の意味は別のところにありました。

中国では、モモは花もさりながら、葉にも実にも薬としての役割があるとされていました。葉は桃葉湯として皮膚の薬に、実は桃核、桃仁として血行を良くする薬となり、蕾は白桃花として利尿や便秘の薬にされました。このような民間療法の薬物としての効果と、古代中国の道教での神仙思想のもとで、モモは仙木、仙果として神仙に力を与える樹木となっていったようです。いたずら者の孫悟空が一口食べれば、仙人や不老不死になるという西王母の蟠桃園のモモを食べて、岩に閉じ込められた話はこのあたりから生まれています。有名な陶淵明とうえんめいの桃源郷は、やや時代の下った普の時代の話ですが、理想郷としての姿は秦帝国から逃れた人々が、理想的な集落をつくったというあたり、まさに、北部九州に出現する渡来系の移民酒楽とも重なって見えてきます。それが弥生時代の幕開けと連動しているかのようです。桃源郷は故地を追われた大陸系渡来人の新天地に対する夢だったのかもしれません。彼らは、薬として僻邪へきじゃの樹木、モモをもたらしたのでしょう。以来、連綿としてモモの花は集落の春を彩り、葉や実は薬となって故地の知恵を授け続けたのでしょう。かくして、何世紀か経て、すっかり定着したモモの僻邪の思想は、「古事記」にイザナミとイザナギの伝承も残しました。「黄泉の国に旅立った妻に会いたいばかりに、約束を破ってイザナギは奥津城(墓)に入り、腐乱し、虻虫の集った妻の姿に驚き、鬼女に追われ、モモの実を投げつけて難を逃れます。」モモの実が僻邪の意味合いを強く表現される場面です。考古学的にも、古墳、特に横穴石室という一人の埋葬から、複数の家族墓的埋葬への変化によって、玄室(遺骸の安置場所)へは羨道部(入口通路)を利用して再利用する機会が生まれ、死後の様態を知るようになったとされます。実際、副葬された鉄の甲冑などにハエの蛹が附着したものもあり、腐敗し蛆にたかられた屍骸を目にしたものと想像されます。イザナギは黄泉の国の境にあった、モモの木の実を投げつけることで、邪気を払ったのです。モモのこうした役割の表現は、葬送儀礼における中国文化の浸透を意味するものでもありました。

ところで、冒頭の纒向遺跡の大量のモモの種です。これは僻邪の祭祀が行われたのではないか、つまり女王卑弥呼は鬼道をつかさどり、その祭祀に僻邪のモモの実が使われたのでないかということです。「やはり、邪馬台国は、奈良、纏向遺跡だ」ということなのです。ところが、九州説の高島忠平氏は「吉野ケ里でもモモは出土しているし、何より菜畑では沢山出土していたので驚くにはあたらない」と一笑されました。とにも、論争は別として、モモの僻邪(鬼)を払う伝承は、のちのち日本では、桃太郎の鬼退治を生み出します。屋根瓦に乗る桃の実の瓦も、お祝いに桃のお菓子を使うのも、皆、この思想が咀嚼された結果です。

菜畑遺跡、末盧館でも春には桃の花が咲きます。春ののどかな桃園には、遠い遠い歴史の積み重ねが土地とともに宿っています。菜畑のモモは集落に華やぎと平穏を演出していたのでしょうか。そんなことも、モモの種子は語っているかのようです。

こんな話です。

Profile

田島龍太(たじまりゅうた)

明治大学政治経済学部卒業

佐賀県教育委員会文化課を経て、唐津市役所に勤務

退職後、唐津市末盧館館長兼唐津城館長に着任。(現在は退任)

「菜畑遺跡「久里双水古墳」など唐津地域の埋蔵文化財の発掘調査、曳山や建造物等多くの文化財の保存保護に従事する。

この記事はからっちゅ!2016年10月号掲載の『末盧の「もの」がたり』をWeb用に再編集したものです。